漢数寺

動画の解説とか書きます

明日の為の碑。(CUE! 4thParty、或いはCUE!というコンテンツの話。)

 こんにちは。寺崎です。

 今回の記事は、2022/11/19に行われたCUE! 4th Party Forever Friendsの話、そしてそのライブをもって活動を休止したCUE!というコンテンツについての話をしていこうという物です。名前の通り。

 

 ぼくはライブの演出やら構造やら作りに対しての知識を有している人間ではないし、CUE!というコンテンツの全てをしゃぶり尽くせた人間でもないから、ここで書いた話は全てぼくがそう思った、という話でしか無いのであしからず。何の裏付けも根拠もありません。あるのはただの感情と感傷、思い込みやお気持ち。

 

 一曲目のあれがどうとか二曲目のこれがどうとか、そういう話もあまりしないつもりでいます。してもしょうがないとは言わないですけど、キリがないですからね。それこそそんなの、ライブのBDとか見ればわかる話のような気もするし。

 

 そして何より大切な事として、この記事を読んでいるあなたがあのライブを、或いはあのコンテンツを見て触れて、思ったり感じたりした何かを否定する為の記事ではありませんと予め明記させていただきます。あなたの考えがあなたにとって正しいよ。ぼくの考えがぼくにとって正しい様に。

 

 CUEの事を知らない人がこの記事を読む事は多分無いとは思うんですけれど、もし知らない人が読んでいるのであれば、どうぞ「なんだかポエムっぽい事を言っているなあ」とか思っていてください。

 今からあの世界に触れる事をオススメはしません。確かにぼくはCUEに触れられて楽しかったし、何一つ悔いはないけれど、でもやっぱり、今となってはもう茨の道でしょうから。

 

 以上、前置き終わり。

 

 

 あのライブを見ていたあなたは一体、何者だったのでしょうか。それはわからないけれど、少なくともぼくは自分の事をマネージャーと思って見ていました。それも大真面目に。

 あの手の二次元のアイドルコンテンツを(彼女たちは厳密には声優なのだけれど、その指摘は揚げ足取りと言う物でしょう)見る上で、自分が一体何者で、どういう視点なのかというのは一つの命題というか……避けては通れないポイントであるような気がします。

 それは例えばプロデューサーだったり、支配人だったり、トレーナーだったり、マネージャーだったりとか、名前は色々。

 

 まあそれ以外にも、それこそ、カップリングを愛でたいとか、お話を読み進めていきたいだけとか、そういう視点でコンテンツにのめり込む人もいるだろうし、それは別になんら間違いではないと思うけれど。

 

 少なくともぼくはあの世界に自分が(或いは、自分の分身とでも呼ぶべき存在が)いると大真面目に解釈していたし、だからこそ、あのライブを見て、「活動を休止するのはAiRBLUEのメンバーだけじゃないよな、マネージャーとしてのぼくもここで一つ区切りが来てしまうんだよな」とか思っていました。

 

 確かに、AiRBLUEのメンバーが死んだり、消えてしまうわけではないでしょう。CUEというコンテンツの展開が終わって、(恐らく)もう更新される事の無い記録と、色あせて行くばかりの記憶の中でさえ、眩く彼女達は輝き続けるし、時に誰かの人生を照らしたり、心の支えになったりしていくのだと思います。でも、新しく物語が紡がれていく事は多分もう無くて。

 

 だからこそ、あの日、ぼくは泣きたくないなと思いながらライブを見に行ったし、実際泣かなかった。泣いたからダメ、泣かなかったから偉いなんてそんなワケは絶対にないんだけれど、それでもぼくは泣きたくなかった。

 

 泣いて、感情が高ぶって、彼女達の姿、或いはパフォーマンスを、ほんの一瞬でも見逃してしまうのが本当に嫌だったからです。

 

 そこには多分マネージャーとしての自覚や意地というのもありました。ぼくは宮路まほろと遠見鳴の担当マネージャーを名乗っている人間なのですが、頭の中にいるまほろや鳴に、泣いている姿を見せたくないとか、本気で思っていたんですよね。

 

 例えばぼくが泣いている姿を見た時、まほろだったら、涙を堪えながら「なんであんたが泣いてるのさ」って言うのかなとか、鳴だったら「そんなに泣くんですね、別にこれで会えなくなるわけでも無いのに」とか不思議そうに言うのかなとか……実際、彼女達にどんな言葉を掛けられて、それに対して自分がどう言葉を返すのかってもう、推測でしか無いんですけれど、それでもぼくはそういう時に意地を張りたいと思う人間だったから。

 

 「泣いてないよ、泣くわけ無いだろ。ぼくはお前らのマネージャーなんだから、ちゃんと見届けたに決まってるだろ」って言いたいよなあって思ってライブ会場に行ったのを今でも覚えています。

 

 それとは別に、半ば冷静な頭で、ミライキャンバスとかカレイドスコープ来たら耐え切れないような気がするし、それで泣いちゃったらそれはそれまでかなとも考えていたし、一曲一曲噛み締めながら聞いていく内に、ああもう無理だな、泣いちゃいそうだな、終わってほしくないなとか思いつつライブは過ぎて行って、終盤の花組の朗読パートの後のOur Songを聞いた時に、「ああ、このライブって悲しんだり惜しんだりする為の物でなく、楽しむ為にあるんだなあ」って実感が湧いてきたのもしっかりと覚えています。

 

永遠なんて無いんだからこそ、今この瞬間を、というような話を繰り返してきたコンテンツの最後のライブで 朗読パートで散々思い出を振り返ったりした後に出てくるのが「昨日の事なんて忘れちゃって」とか「永遠に続く皆の歌を」とか、そういう事を謳う曲なんですよ、そりゃ涙も引っ込むって物でしょう。

 

 きっとあの時、誰もがもうすぐこのライブが、CUEが終わってしまうんだって(薄々でも)自覚して、惜しんでいたと思うし、そしてそうでありながら、でも大丈夫だよ、永遠なんだよと歌う、空元気にさえ思える彼女達の叫びを聞いて、めそめそ泣いてなんかいられない、楽しみ尽くさなくちゃ駄目だって自分を奮い立たせたし、だからこそ、カレイドスコープもRoad to Foreverも泣かないでいられたとぼくは思っている。

 

 そういう意味では、今回のライブの個人的なMVPはあのOur Songだったなって。あの瞬間、ぼくはマネージャーに戻れたと思うから。

 

 色々寂しかったり、悲しかったり、惜しんだりもしたけれど。何より、本当に、とてもとても、楽しいライブだったとぼくは胸を張って言えます。本当に最高のライブだったと。

 

 

 

 そしてもう一つ思う事があって。これはもうライブの話とは違う、CUEというコンテンツに対する向き合い方の話というか、いずれ消えて行ってしまうかもしれない感情についての話なんですけれど。

 

 アフタートークだったり、SNSだったりで演者さんが「どうか忘れないであげてください」って言っていた事を覚えています。同じように、マネージャーさん達(アイマス的な言い方をするなら『同僚さん』とかでしょうか)が「忘れないからね」と言っているのを沢山見ました。実際、ぼくだって忘れたくないし、ずっと覚えていたいと思っているけれど。

 現実的な問題として、そうもいかないよなあと思っている自分もいます。何故ならぼくたちだって生きていて、きっとこれから色々な面白い物や熱中できるものに出会って行くと思うし、歳を取れば記憶も衰えて行くでしょう。ぼく自身、今まで生きてきて、子供の頃は大好きだったけれど、なんでこんなに好きだったんだろう?と思う事だって現に何度もありました(これは敢えて悪い捉え方をしているだけで、良く言えば当たり前すぎて気に留めなくなった、謂わば血肉になったのだ、とも言い表せるのかもしれないですね)。

 

 CUE!は例外だよ!と言いたい気持ちが、今のぼくにはあります。でも未来のぼくにとってもそうかって、わからないんですよ。残酷だけど。

 

 だから今こうして、ぼくは記事という形で、自分の思いや感情を残しています。

 

 きっと忘れてしまうと思う。それは避けられないだろうと諦めている自分がいる。だから、何度でも思い出せるように、こうやって、記録に残している。記憶からいずれ零れてしまった思いや感情を、また拾い直せるようにするために。

 

 きっと未来のぼくがこの記事を見たら、「昔のぼくは、よくもまあこんなポエミーな事を恥ずかしげもなく書いたもんだなあ」とか能天気に思うのかもしれません。でも、今のぼくからしたら、このCUE!ってコンテンツは、そこまでする価値のある物だったんだよって残しておくためにこの記事がある。敢えて気取って、かっこつけた言い回しをしている。そこまでする価値があったんだと刻み込むための碑として、ぼくはこの記事を書いたんだ。

 

 

 お前らの事、忘れてやんねーからな。仮に忘れたとしても、絶対思い出してやるからな。

 

 

 それにまだ厳密に終わった訳じゃなくて。12月にはCUE&Aのスペシャルがあるし、個人的に宮路まほろと遠見鳴がどういう人物で、どういう風に進んでいくのかについて、書いておきたい話があるから、それが終わるまではしっかりと頭に刻み付けて行くつもりでいます。

 

 

 

 

 ……こんな風に散々、現実的な視点を急に持ち出したり、露悪的な事を言ってみたり、かっこつけたりしたけれど、それでもやっぱり、いつかどこかで、また、AiRBLUEのメンバーと、何かしらの形で会えるのを期待している自分もやっぱりいるんだよな。

 そう簡単に、割り切ったりは出来ないんだなと思い知らされる感じ。

 

 またいつかここで、未来の話が出来る事を夢見ながら、今日も明日も、生きて行こうと思います。

 

 また明日。